スラックラインとの出会いを語る上で、 AZ-CANこと我妻吉信との出会いを忘れてはならない。
FREE FALL編集長 高須基一朗
まず、真っ先に小紙創刊にあたり相談したのは、第一回スラックライン日本 オープン日本チャンピオンの我妻吉信ことAZ-CAN(以下、アズマ)。 当の本人は、「適当に協力できることがあるならば、、、、」と、いつもの調子での電話の応対。 創刊にあたり協力してくれるのか、あいまいな受け答え。 思い返せば、10代前半から付き合いになるのだから、早いもので25年以上の付き合いになる。 良くも悪くも、ある一定の距離を保ちながら、先輩後輩の立ち位置を軽薄にしないように維持しくれているのだと思う。 アズマと最初に意気投合したのは、わたくしが中学3年生、彼が中学2年生だったころにさかのぼる。 新宿区立 牛込第二中学校という公立中学校の出身であり、我々の関係は一つ違いの先輩後輩の関係。 放課後になると、二人でバク宙の練習を一生懸命に挑戦し切磋琢磨し、関係性の距離を縮めていった。 当時は、新宿区内での1.2.を争う荒れた中学校であり、わたくしが3年生になった時代には、喧嘩にイジメ、犯罪事件など、中学生といえ、その狂気的な暴挙は、エスカレートするばかりの荒んだ生活を送っていた。 その中で、良い思い出の一つとして残っているのが、アズマとの放課後のバク宙 練習のことである。 あのころからエクストリーム・スポーツに長けた ずば抜けた身体能力を持っていたアズマ。 バク宙はすぐさまに覚え、最終的には壁を使って蹴り上げてバク宙を挑戦するほどだった。 なぜ、プロアスリートの道を目指さないのかと常々、不思議に思ったほどだ そして、十代も定期的に遊ぶ関係になり、20歳の時に、一緒に草野球に情熱を注いだ。 彼は、この時も持ち前の身体能力をいかんなく発揮し、ピッチャー、エースの座に君臨し、 中野区の草野球大会で、チームを優勝に導く立役者となり、喜びも共有した。 とても充実した草野球人生だったが、 荒れた中学生時代の友人、後輩先輩で構成されたチームだっただけに、一度、火が付くと、手の付けられないほど熱血漢あるチームだった。 順調に草野球で楽しみを分かち合える日々を過ごしていたのだが、 二十歳そこそこの若者であり、まだまだ世間知らずだったわたくしは、 中野区2部の公式戦でキャッチャーとのクロスプレイで相手選手と交錯した際に、 頭に血が上り、気づいた時には暴力沙汰の乱闘騒ぎを起こしてしまった。 このことが原因で、 草野球大会でのチーム参加が1年間 参加禁止、わたくし自身は東京都内の野球大会へ2年間の出場禁止処分を受けた。 アズマ含め、地元の仲間内のチームメイトには、楽しみを奪う形で本当に迷惑をかけた。 そして野球に熱意を注ぐことが難しくなった。 打開策として何か新しい取り組みをしなければと思い、次にその仲間内を中心にサッカーへ打ち込むこととなる。 これが20代半ばの頃だろうか。 草野球の楽しい時間を奪うような結果を残してしまい、迷惑をかけたことを本当に後悔していたので、みんなを集めてサッカーの試合を定期的に週末に組み続けた。 みんなへの罪滅ぼしに少しでもなればと感じていたからだ。 時間さえあれば、一緒にサッカーをしていた。 地元の公園で深夜になるまでサッカーをしていたのも懐かしい思い出であり、ついこないだのことのように覚えている。 なんでもできるアズマはサッカーでも司令塔としてエース級の活躍で、いつもチームを引っ張る存在だった。 その後の彼は、吉本の芸人活動や、ゴルフに打ち込む時代を経て、スラックライン界では、知らぬ人がいないであろうAZ-CANの活躍となるわけだ。
アズマが、スラックラインで第一人者であると聞いたのが、2010年のことだ。 久々に再開した時に、彼は、草野球や草サッカーを楽しんでいた時代と変わらず、スポーツを楽しむ姿を周囲に見せて、変わらず脚光を浴びる光の当たる場所にいた。 スラックライン界でも中心的存在で活動をしているのが、とてもうらやましいくも感じた。 ちょうどこのころ、彼がスラックラインの世界大会へ参加し、スラックラインのモデルとしてバックフィリップ(バク宙)の一枚の写真が世界中で知れ渡るようになる。 この写真を見たときに、前述のバク宙を一緒に練習した時の思い出が、強烈に脳裏によぎった。 あの時の練習がきっかけとなり、彼のオハコとしてバックフィリップが武器になってスラックライン界を盛り上げていたのだから、妙に考え深きものだった。 ちょうどそのころ、わたくしは、スノーボードで膝の大怪我をして手術を経験し、リハビリの生活を余儀なくされていた。 その中、リハビリを兼ねてスラックライン良いと聞いたので、この当時の記憶が朧気ではあるが、アズマに連絡して、スラックラインの練習場所へ足を運ぶようになる。 これが、スラックラインとわたくしの最初の出会いだ。
日本のスラックラインが産声を上げてから、すでに2009年から8年の歳月が流れたが、アズマは38歳になっても第一線で戦い続けている。
彼に創刊時に、特集を組んで記事にしたいと申し出たところ、
記事にしてくれるならば、素晴らしき功績なんて、書かなくていいと言い放つ。
彼の言葉をそのまま伝えると、今もなお好きなことを好きにやっているだけ。
両親は健在であり、親のすねをかじってスラックラインができているだけだからと。
世でいうところのパラサイト・シングルであることを、包み隠さず言ってくれて結構だという。
何を言っても、思い立ったら、てこでも動かない性格ゆえに、美談に置き換えることなく
そのまま、このことを記事にすることで決断した。
アズマという男は、この先も誰かの模範になるつもりも、先導者として誰かを導こうとも思っていない。
楽しい時間を共有できる仲間を探し続ける人生なんだと思う。
だからこそ、誰からも好かれる存在であり続けている。
そして、トリックラインの技術面でも、今もなお、日本の選手層の厚い中、当たり前のようにトップライダーの揺るがない立場であり続けている。
どこまで選手であり続けていけるかはわからないが、いつまでも明るく元気なAZ-CANことアズマでい続けていてくれたら、スラックライン界は明るく楽しいスポーツでいれるのだと思う。
楽しいスポーツの後ろ盾には、必ず楽しむプレイヤーの存在がいるのだから。
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